こころの回線と、イヤホン。
朝7時。僕は家を出て、電車に乗り込む。
地下鉄はたくさんの人で溢れていて、缶詰め状態だ。
座席に座れることなんてのは本当に少なく、
いつも、手すりをうまく使って、立ちっぱなしで本を読む。
読書のお供は決まってウォーターサウンド。
水の中にいるかのような、ボコボコという空気音や、
ゆっくりと押しては寄せる、さざ波の音色。
これが一番集中できることに、最近気づいたのだ。
気付けば、乗り換える駅に停車。慌てて降りる。
よく、カバンや荷物を置き忘れるので、注意しながら。
前に、弁当箱を車内に忘れたこともあるし、
傘はしょっちゅうだ。
どばーっと流れるように、あふれ出す乗客。
皆、思い思いの表情だ。
キラキラした目の人、ゾンビのように疲れ果てている人。
そして、誰を見ても、イヤホンをしている。
かくいう、僕も。今は音楽を聴きながら電車に乗るのが主流なのだろう。
ノイズキャンセリングなんて機能も生まれているくらいだ。
ただ、ここで、僕の中でひとつの疑問が生まれる。
いや、これは自問であり、こころへの問いかけと言えるだろう。
「イヤホンは、内界と外界の繋がりを断つ役割を果たしているのでは」。
わかる。自分でも、なんでこんなことを思い立ったのか、気になる。
心理学を学んでいるということもあるだろうし、
僕が、超の付くほどクソ真面目、ということも関係しているだろう。
内界。内なる世界。その人の、こころそのもの。
外界。外の世界。現実とか、社会とか、色々呼び名があるもの。
イヤホンは、そのつなぎ目を、ぷっつり切ってしまう。
今、外で何が起こっているのか。誰が何を話しているのか。
見ている世界はクリアでも、聞こえる世界が遮断されてしまうと
思いの外、人は自分の世界に入り込めるものだ。
閉じこもれる、外の世界と関わらなくてよくなる、とも表現できる。
僕は、後者の役割が非常に大きいのではないか、と思う。
実際、僕がそうだと気付いたし、それが役に立つときもある。
アイフォンを買ったときについてくるようなイヤホンならまだしも、
カナル式の、耳の穴を完全にふさぎこんでしまうタイプのものであれば
本当に何も聞こえなくなる。素晴らしいほどに。
僕は、できるなら外の世界と繋がっていたいし、関わっていたい。
助けを求められやすかったり、自分が誰かを助けられるように。
少なくとも、いつでも力になれるようにはしておきたい。
そんな欲求があるもんだから、イヤホンはまずい。
そのままだと誰とも話せないし、声もかけられづらいだろう。
お年寄りや妊婦に声をかけられないし、外国人とも話せないのだ。
善行をしろ、と言っているわけではない。
いつでも外の世界に注意を向けられるくらいの余力は
持っていてもいいんじゃないか、ということだ。
イヤホンに依存してはいけない。
自ら、外の世界との回線を、オフにしてはいけないのだ。
何を聴いてもいい。思う存分楽しめばいい。
ただ。
こころと外界は、ぜひオンラインにしたままで。
きっと、違った世界が開けてくるはずだから。
fin.