映画とギターと珈琲と。

映画や本の感想、学んだことなど、割と自由に書きます。

目覚め

 

毎週、宿直のバイトに行っている。

 

 

早朝に電車を乗り継いで、

大阪から京都まで。

 

 

その道すがら、ほんのすこしの間だけ

京阪電車の窓から見える朝日が

もうほんとうに綺麗で。

 

 

澄んだ冬の空気。

うっすらとした雲。

 

神々しく照らす太陽と

その光に充てられて

美しくコントラストを描く空。

 

 

全てが調和している。

 

 

 

気持ちのいい朝の立ち上がりに

一欠片のパンとコーヒーを。

 

 

 

心が晴れていく。

 

 

 

 

心のかさぶた

 

 

 

ここ数日、ずーっと心の奥が

むずむずしている。

 

ざわざわかもしれないし

ぐるぐるかもしれない。

 

とにかく、しこりのようなものが

つっかえてとれない。

 

 

かさぶたみたいなものができて

なんとか血は止まった。

けれど

中にはまだ膿が溜まっている。

 

ダメだってわかってるんだけど

はがしたくなる、かさぶたを。

 

 

そのままにしておいてもいいんだけど

傷が塞がってしまうことへの罪悪感。

 

 

時間が経てば、傷は癒える。

でも、痛みは味わえない。

 

 

 

「あ〜〜痛いな〜〜」って

涙を流したいんだけど

 

 

応急処置だけ上手くなってしまって

それがまた辛くてたまらないんだ。

 

 

 

せめてこけたその瞬間くらいは

大声で泣き叫べたりするのも

 

必要なことだったりする。

 

 

 

まだ、傷は癒えない。

僕はゆっくりとかさぶたを剥がす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

失恋

 

 

写真は好かない。
思い出まで一緒に溢れてきてしまう。
辛くてたまらない。
でも、なんでだ。
なんで、楽しかった記憶も蘇ってくるんだよ。
余計にやるせなくなるじゃないか。
どの顔も、笑ってる。
僕は、君の笑顔を見るのが本当に好きだった。
シャボン玉のように弾け飛んだ今と
膨らむ予定のない未来。
くるりを聴きながら、揺れる電車と僕。
そのまま流されていきたい。
「次の停車駅は、○○です」
もう、次の目的地に向かって
人生は進み続けている。
あとちょっと、このままでいさせて。
もう一駅分、景色を見ていたいから。

 

 

横道世之介

 

死は、いつだって突然に訪れる。

 

横道世之介」という映画の作中で、こんな言葉が出てくる。

『僕が死んだら、皆、泣いてくれるかなぁ。』

 

主人公の世之介(高良健吾)は、大学生の頃、おばあちゃんを亡くし、

地元の九州へと帰省していた。お葬式に参加するためだ。

帰り道、高校生のころに付き合っていた元恋人と遭遇。

その子との話の中で、世之介は呟いた。

 

元恋人は、世之介に告げる。

『世之介が死んだら、きっと、皆、笑うんじゃないかな。そんな気がする。』

 

このシーンは、世之介の人間性を最もよく表している。

少なくとも僕はそう感じるし、一番好きなシーンだ。

 

 

大学進学と同時に上京した主人公、横道世之介

へらへらしていて、頼りなくて、どこか少年のような雰囲気を持つ青年。

憎めなくて、お人好しで、誰にでもわけへだてなく接するその姿に、

周囲の人たちは影響を受け、心穏やかになっていく。

 

彼には、人を幸せな気持ちにする ”なにか” があった。

 

 

物語は、世之介と仲の良かった人々の現在と、回想シーンで進んでいく。

特別すごいわけでも、強烈な印象を残しているわけでもないけれど、

思い出すと、ニヤッとしてしまう。

そういえば、面白いやつがいた。

とっても、愛に溢れたやつだったな、と。

 

 

僕は、この映画を見終えた時、世之介と一緒に過ごしてきた感覚になり、

彼が死んでしまったという実感が、ふつふつとこころに湧いてきた。

ああ、もう彼はこの世にはいないのだ。そう感じた。

 

 

思えば世之介は、おもいでのような人だった。

どこか浮世絵離れていて、ふわふわとした雲のようで。

あたたかく、包み込んでくれる。

それでいて、公園に遊びに行った5歳児のように、好奇心だけで

どこまでもいってしまうようなところも。

くったくない笑顔が似合う。

まっすぐで、鈍感で、女心なんてわからない。

 

ただ、一緒にいるだけで、なんだか自分が自分でいられるような

そんな安心感を抱いてしまう。それが、世之介だった。

 

 

世之介は、いつだって僕の心の中に居続ける。

ずっと、友達でいてくれるだろう。

それだけで、僕は、自分らしく在れるような気がする。

 

世之介、ありがとう。この世に生まれてきてくれて。

 

 

 

fin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きという気持ちがわからない。


好きという気持ちはわからないが
笑った顔をたくさん見たいし
隣で笑っていてほしい

好きという気持ちはわからないが
何か力になりたいと思う

好きという気持ちはわからないが
その柔らかい手や肌に触れて
ちょっかいかけてじゃれてたい

好きという気持ちはわからないが
山に登って景色を見たいし
そのあと蕎麦とビールを嗜み
「楽しかったね」と

好きという気持ちはわからないが
恥ずい自分を差し出して
素直な相手も受け入れて
ときにはケンカもしながら
「あのときは…」と酒のネタに

好きという気持ちはわからないが
静かに宿る 愛と嫉妬
胸を打つ 確かなドキドキと
好奇心 もっともっと知りたい

好きという気持ちはわからないが
言いようのない あったかいもの

好きという気持ちがわからない

 

こころの回線と、イヤホン。

 

朝7時。僕は家を出て、電車に乗り込む。

地下鉄はたくさんの人で溢れていて、缶詰め状態だ。

 

座席に座れることなんてのは本当に少なく、

いつも、手すりをうまく使って、立ちっぱなしで本を読む。

 

読書のお供は決まってウォーターサウンド

水の中にいるかのような、ボコボコという空気音や、

ゆっくりと押しては寄せる、さざ波の音色。

これが一番集中できることに、最近気づいたのだ。

 

気付けば、乗り換える駅に停車。慌てて降りる。

よく、カバンや荷物を置き忘れるので、注意しながら。

前に、弁当箱を車内に忘れたこともあるし、

傘はしょっちゅうだ。

 

どばーっと流れるように、あふれ出す乗客。

皆、思い思いの表情だ。

キラキラした目の人、ゾンビのように疲れ果てている人。

そして、誰を見ても、イヤホンをしている。

かくいう、僕も。今は音楽を聴きながら電車に乗るのが主流なのだろう。

ノイズキャンセリングなんて機能も生まれているくらいだ。

 

 

ただ、ここで、僕の中でひとつの疑問が生まれる。

いや、これは自問であり、こころへの問いかけと言えるだろう。

「イヤホンは、内界と外界の繋がりを断つ役割を果たしているのでは」。

 

 

わかる。自分でも、なんでこんなことを思い立ったのか、気になる。

心理学を学んでいるということもあるだろうし、

僕が、超の付くほどクソ真面目、ということも関係しているだろう。

 

内界。内なる世界。その人の、こころそのもの。

外界。外の世界。現実とか、社会とか、色々呼び名があるもの。

 

イヤホンは、そのつなぎ目を、ぷっつり切ってしまう。

今、外で何が起こっているのか。誰が何を話しているのか。

見ている世界はクリアでも、聞こえる世界が遮断されてしまうと

思いの外、人は自分の世界に入り込めるものだ。

閉じこもれる、外の世界と関わらなくてよくなる、とも表現できる。

 

僕は、後者の役割が非常に大きいのではないか、と思う。

実際、僕がそうだと気付いたし、それが役に立つときもある。

 

アイフォンを買ったときについてくるようなイヤホンならまだしも、

カナル式の、耳の穴を完全にふさぎこんでしまうタイプのものであれば

本当に何も聞こえなくなる。素晴らしいほどに。

 

僕は、できるなら外の世界と繋がっていたいし、関わっていたい。

助けを求められやすかったり、自分が誰かを助けられるように。

少なくとも、いつでも力になれるようにはしておきたい。

 

そんな欲求があるもんだから、イヤホンはまずい。

そのままだと誰とも話せないし、声もかけられづらいだろう。

お年寄りや妊婦に声をかけられないし、外国人とも話せないのだ。

 

善行をしろ、と言っているわけではない。

いつでも外の世界に注意を向けられるくらいの余力は

持っていてもいいんじゃないか、ということだ。

 

 

イヤホンに依存してはいけない。

自ら、外の世界との回線を、オフにしてはいけないのだ。

 

何を聴いてもいい。思う存分楽しめばいい。

 

ただ。

こころと外界は、ぜひオンラインにしたままで。

きっと、違った世界が開けてくるはずだから。

 

 

fin.